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webadm
投稿日時: 2007-8-17 23:53
Webmaster
登録日: 2004-11-7
居住地:
投稿: 3068
終戦記念日と私
私自身は戦後生まれだが、父は明治、母は大正とどちらも戦前生まれ。当然どちらも既に他界している。

直接父母から戦争の話を聞かされたことは生まれてこの方一度も無いが、想像しただけでも戦前から戦中と戦後を生き抜いた人生はまさに戦争によって翻弄されたと言っても過言ではない。

父は先祖が京都の武士で廃藩置県によって脱サラし信州の田舎で床屋を開業した。武士ならば刀を扱うのはお手の物だったのでカミソリやハサミを扱う理髪業は親和性の高い転職先だったに違いない。

その後祖父の代で新潟の山奥の片田舎に店を開いて細々と床屋業を営んでいた。そして父が生まれた。父は第一次世界大戦や日露戦争とかを知っている世代である。その頃はまだ日本は成長路線一筋で思いでも多い頃だったのではなかろうか。そしていつしか一家は大東亜共栄圏拡大の路線に翻弄された形で日本の植民地と化した台湾へ移住し、軍港で床屋を開業し栄華の時代を迎えた。

父は床屋の長男として何不自由の無い生活をしていた。仕事もそっち抜けで流行りのカフェとかに行って女店員を口説いていたらしい。

子供の頃に父が思い出したように尺八を取り出して吹いていた。古いアルバムを見るとちゃんとした衣装を着て演奏会に出ている写真まであった。母から聞いたのだが尺八の師範免許を持っているらしいとのこと。

それとやはり子供の頃に月曜日の仕事休みの日に父とつれられて町に遊びにいっていたのだが、時々古びた玉突き屋を訪れることがあった。そこでも懐かしいそうにビリヤードに興じていたが、周囲の客は年齢にそぐわぬ父の腕前に皆びっくりしていた。いつしか先生と呼ばれるようになっていた。

これも母から聞いたのだが、玉突きの師匠の免許も持っているらしい。仕事を引退した晩年は近所の娯楽センターのビリヤードルームで若い衆を教えたりもした。

あんたは一体台湾でどんな生活をしていたんだと、今生きていたら聞いてみたい。

父はもちろん戦中は招集されて南国の戦地に行って家族の元に戻って来たのは戦後だった。

父は戦争体験を一言も私たちには話すことはなかった。思い出すのもいやだったのかもしれない。

父は戦地から戻って来る時にまっしぐらに家族のところへ行くのではなく、一時行方不明だった。後で宮城の松島を見に行っていたと判明。大分家族からぼろくそに避難されたらしい。そういう放浪癖が私も少し受け継いでいるところがあって、血は争えないと思った次第。

一方母は、今の実家がある地の氏族の末裔の次女として生まれ、やはり普通の家に生まれ学校を出て地元の紡績工場で働いていた。

そんな時に縁談が舞い込んで来た。ひとつは台湾で床屋を営んでいる日本人家族の長男(私の父)、もうひとつはハワイで農園を営んでいる日本人移民家族の跡取り息子。2つの縁談話でどちらにしようかと母は迷ったらしい。台湾ならいざと言うときに本土へ戻って来れるしということで安易な台湾を嫁ぎ先として決心したらしい。しかし後に、母が「失敗した」と漏らしたのはその後の翻弄された人生を振り返ってのことだろう。

母は台湾に嫁いで良いこと無しだった。現地の風土病であるデング熱にかかり死にかけた。長い間子だからに恵まれず、かなり追いつめられたらしい。しかし気が付けば三男三女の子だくさん家族になっていた。

母は失敗したと思っているかもしれないが、ハワイに嫁いだとしてもやはり戦争に翻弄される人生は免れなかっただろうと想像される。ハワイでの農園作業は当時大変労働条件が厳しく大変だったと聞く、それに日本人移民は敵性住民と見なされてカルフォルニアの収容所へ幽閉された。戦後収容所から開放された日系人がたどった険しい歴史はあまり知られていない。ハワイへ戻った人もいるかもしれないが、大部分はカルフォルニアで職を求めたに違いない。

昔サンディエゴにしばらく滞在した時にホテルのハウスキーパーの一人が母と同じ年齢の日本人のお婆さんだった。部屋の書き置きとかで日本人だとわかるとメモを残して直接顔を合わせることはなかったけど話が出来た。戦前に米国へ移民した日本人はそういう人も居る。母ももしかしたらそういう一人になっていたかもしれない。もう一人の私が居たとしたらハワイかカルフォルニアに生まれた日系二世だったろう。ハワイに居たらスラッキーギターとかウクレレを自在に奏でていたかもしれない。カルフォルニア生まれだったら大学を出てシリコンバレーで働いていたかもしれない。歴史にもしもがあったらの話。

直接父母から聞いた話ではなく、父母の法要の時に親戚が集まった時に漏れ聞いた話である。

上の兄弟姉妹は台湾生まれである。アルバムを見ると豪華な子供服を着飾って床屋の椅子に座らされて撮った記念写真がある。

私と下の三兄姉は日本生まれ。なので子だくさんが災いして貧困と窮屈な生活でろくな記念写真は無い。私のといえばまだ物心付く前に姉に連れられていった土浦の霞ヶ浦で撮った写真ぐらい。しかも姉のお下がりの白いドレスを着せられているので長い間それは自分の写真だとは信じていなかった。でも記憶の隅に湖の桟橋で小舟に乗る時に船との間に隙間があって湖面が見えて怖かった記憶があるので確かにその場に居たことは確かである。

台湾の良き時代の頃を彷彿させるものに、鯉のぼりがあった。甥が生まれた時に物置からたいそう大きなサイズの古い紙の入れ物に入った鯉のぼりがだされてきた。たぶん近所界隈では桁外れに大きなサイズである。鯉の口に人が二人ぐらい入れるほどの大きさである。今ではそうした大きな鯉のぼりは売っていないだろう。おそらく台湾で一番上の兄が生まれた時に買い求めたものだろう。

祖父母も台湾から引き揚げてしばらくは実家で暮らしていたが、私が生まれた頃にはどちらも他界していた。兄姉から祖母と暮らした記憶を聞く程度である。

終戦記念日というと母が生きていた頃には、お盆とかで祖父母や祖先の墓参りをしたりする季節ということしかなかったが、父母が他界して私も実家から離れて暮らすようになって、ようやく父母の生涯を翻弄した戦争というものが何だったんだろうと思いを巡らす季節となっている。

アーノルドトインビーはその著書である歴史の研究で、戦争は犯罪であると結論づけている。侵略戦争、敵対戦争、報復戦争、宗教戦争、いずれも意図的に相手の命や生活を脅かす行為であることからして犯罪行為であるというのはもっともな結論である。しかしそれを何故止められないのか。ノーベル賞物理学者の湯川博士は戦争は止めれば済むこと、何故そんな簡単なことがわからないのかと問い続けていた。

それは自分自身への日常わき起こる悪意の兆しへの警告にもなっている。
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題名 投稿者 日時
 » 終戦記念日と私 webadm 2007-8-17 23:53

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