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webadm
投稿日時: 2006-11-11 13:19
Webmaster
登録日: 2004-11-7
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投稿: 3087
ソフトウェアを所有せずとも利用できる時代が来ているのか
Yendotで知ったティム・オライリー氏の警告を読んで思ったこと。

元々リチャード・M・ストールマンが最初にFree Software思想運動を開始するきっかけとなったのは彼のMITでそれまで改変が自由だったいくつかのソフトウェアが次々と商用化されるにつれ改変もソースコードの公開もされなくなっていった時代の流れと戦った体験に根ざしていたと思う。もしそうした体験をすることなくその時代を過ごしていれば今のFree Software Movementは無かったかもしれない。

未だにFree Software思想が多くの人に理解されるに至っていないのはそれらの人が同じ体験を共有していないからである。見方を変えれば自由に対して鈍感であるとか、不自由を感じなくなるまで毒されているとか見えるかもしれない。

インターネットが普及する以前にパソコン通信の時代からGNU Softwareのテープ回覧とかが行われていた。Free Software思想を信じる者は誰もがまるで仏典を写経する僧のようにせっせとフロッピーやテープ媒体をコピーしては次の人に回覧していた。それが普通の信仰者のできる精一杯のことだった。しかし参加しているほとんどの人はソフトウェアで不自由な体験を共有していたわけではなく、むしろなに不自由なくコンピューターを利用したり高額な商用ソフトウェアを利用できた人々が多かった。当時UNIXが使える人はかなり選ばれた人たちだった。

私個人の場合は、所有していたソフトウェアではなくむしろハードウェアで不自由を体験していた。まだCP/MとかいうOSがあった頃、MS-DOSベースのPCが主流になっていた時代にCP/Mベースのコンピューターを所有していた。どちらも機能的には大差はなく、似たような事ができた。しかし、設置ベースでは圧倒的にMS-DOSベースのマシンが多数を占め。それ以外は存在しなくても良い状態にまでなってしまっていた。MS-DOSマシン用にパソコン通信システムのフォーラムとかに公開されていたソフトウェアを利用したくても出来なかった。ソースコードがあれば自力で移植できたかもしれないがほとんどはソースコードが公開されていなかった。当時Free Software思想にかぶれていった人たちのなかには使いたくても高くて買えない、移植したくてもソースコードが公開されていない、そういうソフトを無償で所有して使いたい、という不純な動機の人が少なからずいたに違いない。白状すると私もその一人だった。

GNU Projectの多くの試みの中には、そうした不純な動機の人々を魅了する野心的なテーマがいくつもあった。リチャード・M・ストールマン自身が最初に手がけたEMACSからしてジェームス・ゴスリングの商用EMACSと真っ向から対抗していた。EMACSはFree Software思想のまさに導火線のような役割を果たした。当時商用EMACSはUnipress-EMACSとか様々の名前で一部の高額なシステムのオプショナルなソフトウェア商品という位置づけでそれ自身高額だった。当時は普通の人は手に入れることも、使う機会も無かった。目にした人も少ないだろう。後になって一度だけ使ったことがあった、良くできていたが手になじむ程使う時間は与えられなかった。他にも高額な商用ソフトウェアと同等かそれを凌ぐFree Softwareプロジェクトが次々と旗揚げされていった。そのいくつかは今日日の目を見ているがターゲットにされた商用ソフトウェアはいくつかは今も独自に進化を続けまだまだFree Softwareが追いついたとは言えないものも多い。いくつかはFree Softwareの方が有名になって現在もなお普及し続けているものもある。

Free Software思想がややこしいのは、それを理解するためには原体験を何らかの形で再体験する必要がどうしてもあるということ。観念的にはわかるが、ストールマンの意志を継ぐためには体験を共有していないとどこか変質してしまいかねない。更にややこしいのは、Free Software思想の根底にある商用ソフトウェア撲滅という目標が既に商用ソフトウェアが人々が最初に利用するソフトウェアであることから受け入れられ難いという点。

Free Software思想が既に古いというオライリー氏の警告は、Free Software思想がソフトウェアを使うためにはそれをまず所有しなければならないということが前提であるためである。

MicrosoftとかFree Software信者からすれば悪の権化のような存在が、従来のインチキなEULAをかざしてユーザーにコピーの所有はさせるが実はほとんど所有権を与えないソフトウェアの売り方ではなく、最初から所有させないで利用だけ可能にする形にせっせと土俵を変えつつあるこの時代にその先どのような不自由な体験をするかどうかも誰も予想がつかない。

たとえばMicrosoftは利用者の手元にあるPC上にインストールされるソフトウェアはすべてソースコードを公開してLinuxプラットフォームでも同じものを提供すると仮定しよう。でも実際のアプリケーションはWebサーバー上にあってブラウザーを介してアクセスするだけであらかじめアカウントを登録し加入料を支払っていれば利用できてしまう仕組みを作ることは可能である。そうして利用できるサービスに次世代のOfficeのようなものもあるかもしれない。それで作成した自分の文書はローカルなPC上やストレージに保存してもいいし、サーバー上のレンタルストレージに保存しても良いとする。しかしその文書はサーバーにつながらない環境では利用することが出来なくなる。文書ファイルの内部フォーマット仕様が公開されていない限り。公開されていたとしても実際にそれと一致しているかどうかは保証の限りではない。何か秘密の粉が紛れ込んでいるかもしれない。

将来はブラウザーからアクセスするだけでほとんど何でもできてしまう時代になることは容易に予想できる。それが主流になるとCP/MからMS-DOSへシフトした時の私の様に不自由な体験をすることになる。媒体にコピーしたソフトウェアを販売する時代は既に過去になりつつあるのかもしれない。それはダウンロード販売とかではなく、利用者にプログラムを所有させないまま即日利用させるという時代である。

実際にどのようなことが可能か暇を見て考えてみる必要がありそうである。
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題名 投稿者 日時
 » ソフトウェアを所有せずとも利用できる時代が来ているのか webadm 2006-11-11 13:19

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